2010年02月13日

キリンビールを設立

岩崎弥太郎の長男である岩崎久弥が、三菱の第3代総帥になってからは、事業を統括していきます。事業の中心は鉱業や造船と言った物でしたが、久弥が個人的に興味を持っていたのは「紙」と「ビール」だったそうです。

横浜では、明治初期の頃から「スプリング・ヴァレー・ブルワリー社」でビールを作っていました。その会社を岩崎弥之助、岩崎弥太郎と敵対していた渋沢栄一等の財界人を始めとして、横浜に住んでいた外国人達が出資する形で買収をしました。買収後名前を「ジャパン・ブルワリー社」と言う名前に変更しています。

この頃、ビールと言うアルコールは日本人にとっては余り馴染みが無く、普及もさほどしていなかったと言います。しかし明治屋と言う総合代理店が「キリン」のラベルを使って一般の人向けに発売をした事がキリンビールの初と言う事になります。

明治40年に、輸入販売業者の総合代理店だった明治屋と、岩崎家、更に日本郵船が合同になって「麒麟麦酒株式会社」を設立する事になりました。

当初は神奈川県鶴見に工場を作りましたが、その後は仙台、広島等、日本で何カ所か工場を作り、朝鮮や満州等海外にも作って事業を展開していったと言います。

その後、キリンビールは日本でも1位2位を争うビール会社に成長し、他のビール会社とのシェア争いをしていく事になります。岩崎久弥はキリンビールの買収には関わりましたが、経営と言う部分に関与する事は無かった様です。
  


Posted by mori  at 00:00岩崎家

2010年02月06日

オフィス街など建設業に従事

岩崎弥太郎の長男として産まれた岩崎久弥はアメリカへ留学していました。その後、三菱社の副社長になるのですが、その前の年、岩崎弥太郎の弟で三菱社の第2代総帥である岩崎弥之助は、今の東京丸の内周辺に10万坪と言う広大な土地を購入したと言われています。

この土地は政府の陸軍省から購入したのですが、政府が財源に苦しんでいた為、政府を救ってくれるように懇願して、土地を払下げした物だったそうです。

政府が提示していた金額は余りにも高額だった為に、弥之助も相当悩んだらしいですが、国家に尽くす事が三菱の意思であると言う事から、高値でも土地を購入する事を決意したと言います。その土地の価格は、当時の東京市予算の大体3倍はあったと言いますから、かなりの高値である事は間違いありません。

当時、まだ東京駅と言う物は無く、中央線がお茶の水までしか通っていなかったり、路面電車が日比谷~大手町間で走っていたりと言う時代だったので、丸の内は交通の便はかなり不便だった事が伺えます。

しかし、岩崎久弥が第3総帥になると丸の内オフィス街を建設する事になり、東京駅が開通する事になり、丸の内も交通の便が良いと言う場所になっていきます。

丸の内の土地を購入した背景には、その当時三菱の管事をしていた荘田平五郎が、ロンドンのビジネス街をイメージして、そう言った物を東京にも作りたいと言う構想があっての事だったと言います。

今の丸の内オフィス街があるのは、岩崎弥之助・岩崎久弥のお陰と言う事になり、結果的に岩崎弥太郎がいなければ成しえなかった事だとも言えます。
  


Posted by mori  at 00:00岩崎家

2010年01月30日

実弟 岩崎弥之助の多趣味ぶり

岩崎弥太郎は子供達や、社員達の育成には力を注いだと言われていますが、弟である弥之助も同じ様に子供達の育成に力を注いだと言われています。

弥之助は学寮を建てました。その学寮には優秀な学生が入寮すると共に、質素剛健を目的とした規則正しい、規律がしっかりしている生活が送れるようになっていました。岩崎弥之助の長男や次男も例外ではなく、中学に入るとその寮に入れられ、上下関係がしっかりした中で色んな事を学んだと言います。また、休みの日には自宅に戻ってきていたそうですが、色んな遊びやスポーツを忙しく楽しんでいたと言います。

岩崎弥太郎の弟である岩崎弥之助は、とても多趣味だったと言われています。それほど好奇心が旺盛だったと言う事なのですが、古典籍収集、建築、園芸、東洋文化、美術品等、本当に数え切れない程興味がある物があり、その収集品に関してだけでもかなりの数だったと言います。その収集品を収納した美術館までも作られた程です。現在は世田谷にその場所を移し、岩崎弥之助の長男である小弥太の収集品等も一緒に展示されていると言います。また、現在では国宝品、重要文化財品等数多くの展示物を収蔵しています。

また、漢学の収集についてはかなり重きを置いていたみたいで、幼少の頃は漢学を学んでいたとは言え、そこまで興味が有ったと言う訳では無かった様です。しかし、恩師である重野の為に、私財を投入してまで漢籍収集をするようになったと言います。その数は何万冊とも言われています。
  


Posted by mori  at 01:00岩崎家

2010年01月23日

岩崎一族の子孫たち

岩崎弥太郎は、妻である喜勢夫人との間に、1男2女を設けました。長女、春路は内閣総理大臣にまでなった加藤高明と言う人の妻になりました。他に、第3代三菱の総帥となった久弥、二女である磯路がいます。また岩崎弥太郎は養子も1人迎え入れ、名を昌作と言いました。昌作は実業化であった郷誠之助の4男であったと言います。岩崎家の養子が決まると名前を豊弥に変えました。この豊弥は後に岩崎家から分家する事になります。

ちなみにですが、豊弥の姉である幸子が嫁いだ先は川崎財閥であった為、岩崎家は郷家を介す事で、川崎財閥と姻戚関係を結ぶ事になりました。

更にですが、岩崎家は養子の豊弥を通じて皇室と繋がる事になるのですが、これは、豊弥の長女が昭和天皇の侍従長を長い間努めていた事に始まります。そこから入江相政と言うエッセイストと結婚をしました。その旦那である入江の姉は高木正得子爵と言う所に嫁いでいたのですが、娘(二女)が三笠宮崇仁親王と結婚したのです。少し複雑で血縁は全然ないのですが、岩崎家、入江家、高木家と言う様に介していき皇室と繋がる事になりました。とは言ってもかなり遠い関係と言う事になります。

岩崎弥太郎の二女である、磯路は木内重四郎と言う京都府知事をした事がある人と結婚をし、子供を5人設けています。

磯路の次男は木内信胤と言う経済評論家になりました。磯路の二女は渋沢栄一の孫と結婚しました。渋沢栄一の孫は大蔵大臣や、第一銀行の副頭取まで担った人です。

この他にも、岩崎弥太郎の子孫達は、物凄い人物達との交流を深め、姻戚関係になって行ったと言いますから、物凄い家系図になっていると思います。
  


Posted by mori  at 00:00岩崎家

2010年01月09日

華族ではなかった岩崎家

三菱グループの創始者である岩崎弥太郎、そしてその弟であり、三菱グループの2代目総帥である岩崎弥之助等がいた岩崎家は、経済界きっての名門家系として知られています。
三菱グループの歴代総帥は岩崎家の家系で引き継がれていて、初代総帥は岩崎弥太郎、2代目総帥は弟の岩崎弥之助、3代目総帥は弥太郎の長男である岩崎久弥、4代目総帥は岩崎弥之助の長男である岩崎小弥太と、身内で総帥を歴代勤めている事になります。

また、家系からは2人の首相が誕生している事も挙げられます。弥太郎の長女の旦那である加藤高明、弥太郎の4女の旦那である幣原喜重郎の2人です。

更に、弥太郎の孫である君子はエッセイストだった入江相政の妻となりますし、エリザベスサンダースホームの創設者になった物も弥太郎の孫でした。またひ孫には大学の名誉教授を務める物、その妻になる物、小岩井農場の親会社であった東山農事の社長を務めた物等、そうそうたる経歴を持つ物ばかりが家系にいる事になります。

岩崎家の家紋は、昔から変わらず三階菱だと言う事です。

もともと、岩崎弥太郎が生きていた頃には、岩崎家は華族としては認められていなかったそうですが、弥太郎が死んだ後にその功績が称えられ、長男の久弥が男爵としての地位を授けられて、華族となった様です。

一介の地下浪人であった岩崎家が、華族にまで成り上がるとは、弥太郎が生まれた時には思ってもいなかった事でしょう。それほど弥太郎が残した功績は凄い事なのです。
  


Posted by mori  at 00:00岩崎家