2010年02月20日

話の聞き上手 岩崎弥太郎

岩崎久弥はとても聞き上手であったと言います。人の話を相槌を打って良く聞いてくれて、相手が信頼出来る人だと判断すると、話の方向性のみ確認をして、後はその人に任せたと言います。

岩崎久弥は、人を信頼する事に長け、人に信頼もされていた人物で、人の上に立つ人間としてはとても大切な要素を持ち合わせていた人だった様です。

岩崎弥之助が、岩崎弥太郎の遺言により久弥を三菱社の総帥にしますが、その時期はとても速く、久弥が弱冠28歳と言う事でした。久弥の人柄もそうですが、岩崎弥太郎が生存していた時から、尽力を尽してくれた幹部達がいてくれたからこその判断でもあった様です。

そんな久弥が50歳を迎えた頃、当時36歳であった岩崎弥之助の息子である小弥太に三菱社の社長の座を譲ったのは余りにも唐突な出来事であった様です。三菱社の事業は順調に進んでおり、益々の活躍が期待されていたと言います。それも社長である久弥、副社長である小弥太のコンビネーションがあってこそだったと言われています。ですから、まだ50歳の若さで社長を交代する必要性は無かったのではないでしょうか。

しかし、ここが久弥の凄い所だった様です。こう言う好調の時だからこそ後継者を譲ると言う事が人を信頼している証だったのでしょう。小弥太に社長を譲ってからは、小弥太を信頼していたので、経営に関して口をはさむ事は決してしなかったそうです。

久弥は引退後、小岩井農場の事業を楽しんで行う等して、楽しく社会貢献しながら余生を過ごしたと言います。
  


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2010年01月16日

岩崎弥太郎という人物

岩崎弥之助は岩崎弥太郎の弟で、三菱財閥の2代目総帥となった人物です。元々は兄の片腕として九十九商会時代から働いていましたが、明治18年に兄である岩崎弥太郎が死亡した事を期に、兄の意思を次いで三菱の2代目として就任しました。

岩崎弥太郎が総帥の時は、一時期経営の危機にまで陥ってしまった事がありましたが、弥之助に総帥が変わってからは、経営が多角化していきました。そこから三菱は急速に事業を発展させていく事になりました。

今の人達が知る所で、岩崎弥之助が手掛けた所と言うと東京の丸の内周辺であったと言います。元々岩崎家は高知県出身の地下浪人の出でありましたが、一族で東京に移り住み、弥太郎、弥之助等の活躍により財力を付けていきました。

また、明治23年頃には東北新幹線が今の盛岡まで開通しました。岩手と言うと小岩井農場を知っている人も多いでしょう。バターや牛乳、アイスなど多くの乳製品も有名です。その小岩井農場を開設したのが、岩崎弥之助を始めとした、当時の日本鉄道会社副社長である小野義真、鉄道庁長官であった井上勝だったそうです。小岩井農場の開設は経営としても大成功を収めた様で、多角経営の一貫として大いに役立った様です。

明治32年には、3人の経営から岩崎家独自の所有物となった様です。弥之助はそれだけに留まらず、弥太郎の長男である久弥を三菱の3代目総帥としたら、自信は日本銀行の第4代総帥として活躍したそうです。
  


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2009年12月28日

岩崎弥太郎にとっての重要人物

岩崎弥太郎に影響を与えた人物はたくさんいますが、その中の1人に「ジョン万次郎」が挙げられます。

そのジョン万次郎ですが、鎖国も開け、近代日本が開かれたといる時代に、日本と欧米との懸け橋となって多大なる業績を残した人物です。ジョン万次郎と言う人物がいる事は知っていても、どんな功績を残してきた人なのか知らない人も多いのではないでしょうか。ジョン万次郎の功績については、日本より逆にアメリカの方が評価が高い様です。

その証拠として、第30代アメリカ合衆国の大統領である「クーリッジ」は「ジョン万次郎がアメリカから日本に帰国した事、これはアメリカがアメリカ大使として日本に送りだしたのと同じ事だ」と言うように語っていたという事もありますし、アメリカが建国されて200年の記念の時に「海外からの米国訪問者展」と言うイベントが開かれたそうですが、その中にジョン万次郎が入っていたそうです。たった29人の中に入っているとは本当に評価が高かった事を考えさせられます。

かの有名な坂本龍馬も、ジョン万次郎の体験してきた事を聞き、外国に対して興味を持ち開眼していったと言われています。それを基にアメリカの生活事情、民主主義などの知識を用い、近代的な日本国を作ろうと目指していったと言われています。

また、ジョン万次郎の影響は坂本龍馬だけでは留まらず、板垣退助や岩崎弥太郎にまで与えたそうで、国際化時代を迎えうつ為に必要な人材だったのだと思います。

今、ジョン万次郎の銅像は足摺岬に立っています。その姿はアメリカのフェアヘーブンを見つめている様な思いをはせた風貌で立っています。
  


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2009年12月25日

岩崎弥太郎の遺志

幕末の時代、土佐に生まれた一人のわんぱく坊主が、海を見ながら広い世界に思いをはせていた幼少時代。そんなわんぱく坊主の岩崎弥太郎が35歳になった時、つくも商会を大阪に経営を任される形で創設させ、たった5年と言う短い年月で「東洋の海運王」と呼ばれるまでになりました。その後、50歳までの10年間まっすぐに前を見続けた生涯を送ったのが岩崎弥太郎です。

岩崎弥太郎は、本当に立ち止まると言う事を知らなかった人物です。業績をあげ、色んな人からの妨害も受けながらも一歩も譲る事無く、自分の信念を貫き通した生涯であったと言えます。

東京の自宅にて病に倒れ、死を目の当たりにした弥太郎は、今までに出会ってきた多くの人達の事をきっと思い出していたのではないかと思います。師と仰いだ吉田東洋を始め、後藤象二郎、坂本龍馬、福沢諭吉、渋沢栄一、ジョン万次郎、等そうそうたる面々です。本当に自分の意思を貫き、波乱万丈に生き、そしてとても中身の濃い人生だったのではないでしょうか。

明治18年に50歳と言う若さで亡くなりましたが、その直前まで岩崎弥太郎の意識ははっきりしていたと言います。病気の為に激痛で苦しみながら三菱グループの為、後継者の事の遺言を残したそうです。

志半ばにして病に倒れた弥太郎の代わりに、その遺言どおり、弟である弥之助が三菱の後を引き継ぎ、その更に後を息子である久弥、小弥太等が引き継いでいきました。それが今の三菱グループの原点となっています。
  


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2009年12月22日

岩崎弥太郎の生家

三菱社の創業者である岩崎弥太郎は、高知県安芸市(当時は井ノ口村)で生まれ、幼少時代を送っていました。今は妙見山の所にある山麓へ続いている道すがら、生家が残っています。車1台がやっと通れる道の所にある、とても穏やかな雰囲気の所です。そんな所で岩崎弥太郎は生まれました。

岩崎家が安芸氏に家を構えたのは、弥太郎の曽祖父であった岩崎弥次右衛門が1795年に手に入れたものだったと言います。今現存している生家は、1795年当時の姿そのままだと言う事で、残っているのは凄い事だと思います。大体30坪程の土地に、平屋でかやぶきと言った佇まい、部屋も4畳半の部屋が3つ、8畳ほどの部屋が1つと言った感じで、決して広いとは言えない家でした。

また、土倉の所にある鬼がわらには岩崎家の家紋が彫られていて、それは三階菱と言う形でした。三階菱は菱形が鏡餅の様に3重に積み重なっている様な感じになっています。これが三菱マークの原型になっています。

岩崎弥太郎と言う人物を知る上で、生家を知っておくと言う事はとても大切な事だと思います。何しろ今や財閥とまでなっている三菱グループの創始者である、岩崎弥太郎の原点ですから。それと同時に、当時の暮らしぶりが分かる様なとても貴重な財産でもあります。

岩崎弥太郎の生家は、今の時代に見たとしても、周りがのどかだっていう事、家の雰囲気からして当時にタイムスリップしてしまう、とても穏やかな感覚になると思います。
  


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2009年12月09日

偉大な岩崎家の母 美和

岩崎弥太郎の妻になった喜勢は、結婚当初に送っていた極貧・どん底の生活を、裕福になっても決して忘れる事は無かったといいます。その為、どんな時でも姑である美和を立て、一歩下がる様な形で弥太郎を支え続けたと言います。

岩崎弥太郎の死後、弟である岩崎彌之助が弥太郎の遺言どおり三菱の社長となるのですが、その岩崎彌之助にとっても母美和は特別な存在であったといいます。その教えもあって、弥太郎の長男である久弥を三菱の総帥に上げる様に指導し、育成し、その一方で三菱一門をまとめ上げていたと言います。そして弥太郎の息子久弥が28歳になったとき、三菱商会の社長を譲ったそうです。

岩崎家の家系は凄い物にその後なっていった様で、先ず弥太郎の長女である春路が嫁いだのは加藤高明と言う男で、この男は三菱の社員だったと言います。その加藤高明は三菱グループから官界に行き、首相にまでなりました。また弥太郎の四女である雅子が嫁いだのは外交官であった幣原喜重郎と言う男で、この男もまた首相になったと言います。

岩崎家の家系から首相が2人も出ると言うのも、かなり凄い話ではないかと思います。しかしその時には母美和は既に亡くなっていたそうです。

美和は明治7年、東京に住まいを移しますが、その都度都度で色んな事を書き綴っていったと言います。弥太郎の死の直前の事、事業の事、家の事等々、あらゆる事だった様です。それは美和が死ぬ直前まで続いていたそうです。

美和は岩崎家にとっては、絶大なる威厳を持っている存在であり、美和が書いた手記は今でも大切に保管されているそうです。
  


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2009年12月08日

岩崎弥太郎の母親

明治9年頃、岩崎弥太郎の母岩崎美和は、長女である春治の所(大阪)へ暫く身を寄せていた事があると言います。その頃は毎日の様に弥太郎から母へ手紙を送っていたそうです。内容はとにかく「無事で」「早く帰ってきて」と言う様な、母親に対する愛情が見える内容だった様です。

明治9年頃と言うと、岩崎弥太郎にとっては「郵便汽船三菱会社」を作り(日本国郵便汽船会社を吸収すると言う形で作りました。)、政府の助成策を享受する等している頃で、勢いが止まらなかった時期になります。三菱商会の仕事で昼間は忙しく奮闘し、夜は人脈作りの為なのか、毎晩どんちゃん騒ぎをしていた様だったのに、マメに母親に手紙を書いていた事は本当にビックリです。

岩崎弥太郎の母、美和は元々町医者の娘として産まれました。それが土佐の井ノ口村の地下浪人であった岩崎彌次郎の所に嫁ぐ事になる訳ですが、それは貧しい暮らしだった様です。それでも誇りを失わずに常に凛とした態度でいたそうです。弥太郎を始めとした子供たちにとって、美和はとても大きな影響力を持っていて、それは生涯変わらなかったとか。

岩崎弥太郎が海運事業に乗り出し、忙しい毎日を送っていた頃、母は弥太郎を厳しく諌めたり、励ましてきたりして常に心に安定をもたらす存在としていた様です。

また、美和は岩崎家の家訓を残していた様ですが、その中に「貧しい時代の頃を忘れるな」と言う様な内容の家訓がありました。これは弥太郎に対する戒めの言葉だったかもしれません。この言葉を思い出すたびに弥太郎は身が引き締まる思いをしたといいます。
  


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2009年12月07日

岩崎弥太郎と岩崎家の身分

岩崎弥太郎は、土佐国の地下浪人と言う身分の家に長男として、高知県井ノ口村(現在の安芸市)に生まれました。

岩崎家は元々土佐にいたのではないと言われています。甲斐源氏武田にある岩崎一族の末裔なのではないかとも言われていますが、その真偽は定かではありません。そんな岩崎家が土佐に移り住んだ時期は分かりませんが、土佐に移り住んだ際、安芸氏、長宗我部氏と言う様に色々な人の下に仕えていた様ですが、岩崎弥太郎が生まれる頃には「地下浪人」と言う身分に下がっていた様です。

地下浪人と言う身分が有る事さえ知らない人もいるでしょうが、地下浪人とは郷士の株を売った人の事を指しています。40年以上も郷士職に付いていた人に名付けられた呼び名の様で、郷士の株を売ってしまった人、最も最下位の武士と言う身分であると言えます。

そもそも「郷士」は半分農民、半分武士と言う身分になります。また「郷士の株」と言うのは、財政悪化した藩が臨時収入を得る為に、豪農や町人に対して名字帯刀を許してしまうと言う権利を与えると言う事です。

岩崎家は飢饉と一揆に苦しみ、曾祖父である岩崎弥次右門が郷士の株を売ったと言う事で、地下浪人と言う一番下の身分になってしまったと言う事です。こう言った理由から岩崎弥太郎は生まれた時から、一番下の身分で極貧と言う状況で暮らしていたという事です。

あの坂本龍馬の家も豪商から郷士になったと言う家柄に育ったと言われています。
  


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2009年12月06日

岩崎弥太郎のキャラクター

岩崎弥太郎は三菱グループの創立者と言う事もあって、多くの方は財閥の出で裕福だったのではと思う人も多いでしょう。しかし、岩崎弥太郎は恵まれた環境の下で幼少時代を送った訳ではありませんでした。

岩崎家の身分は「地下浪人」と言う身分でした。「地下浪人」とは地下に投獄されていると言う意味ではなく、郷士の株を売って居ついてしまう浪人の事を指していたそうで、かなり身分は低かったそうです。ですから、岩崎弥太郎の幼少時代と言うのは、本当に極貧生活で苦しかったと言っても良いと思います。

しかし、岩崎弥太郎は才覚を発揮し、起業家として成功までした人です。何故ここまで出世する事が出来たのでしょうか。岩崎弥太郎は秀才とまで言われ、当時の土佐藩主に褒められた経緯もあります。その才能を生かして勉学に勤しんだと言います。その後江戸に遊学に出向く事になるのですが、その前に地元の神社に参拝をして、そこの扉に「後日 英名ヲ天下ニ轟カザレバ 再ビ帰リテ此ノ山ニ登ラジ」と書き、幼いながらにもその心に大志を抱いた様です。それが多いなる野望に繋がったのでしょう。

今でも岩崎弥太郎の生家が残されていますが、その庭石は日本列島を模って並べているのではないかと言われていて、幼少の頃から日本全土を思って野望を抱いていたのかもしれません。その極貧時代を送った経験が、将来「東洋の海上王」と呼ばれるようになるまで上り詰める引き金になったのかもしれません。
  


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2009年12月04日

岩崎弥太郎の生涯の宿敵 渋沢栄一

渋沢栄一とは、日本の産業が発展する為、国民みんなが豊かになる為に尽力を注いだ人物です。関わった主な企業に、帝国ホテル、日本製紙、キリンビール、東洋紡績、東京海上保険会社等本当に有名な会社ばかり挙げられます。そんな渋沢栄一は「経営の神様」とまで言われていた人物です。

そんな渋沢栄一と岩崎弥太郎は生涯にわたって戦いを繰り広げたと言われています。

事の始まりは明治11年の8月、岩崎弥太郎が主宰した舟遊びに渋沢栄一が主賓として招かれた事に始まります。渋沢栄一が岩崎弥太郎の経営思想である三菱商事の社規を批判したそうです。

岩崎弥太郎は、起業家として有名で三菱商事も会社と言う組織体制を取っていました。しかし精神的な部分としては、組織体制を否定していたと言われています。対して渋沢栄一は、合本主義や経済道徳合一主義を取っていた事から、岩崎弥太郎の個人営利主義的な考えに同意する事が出来なかったそうです。

こう言ったやり取りが、舟遊び上で繰り広げられていたのですが、一応仲裁が入り万事休すと言った状態になったそうです。しかし岩崎弥太郎と渋沢栄一の間には深いヒビがこの時入ったと言います。

ここから戦いが始まるのですが、先ず仕掛けてきたのは岩崎弥太郎率いる渋沢栄一とは、日本の産業が発展する為、国民みんなが豊かになる為に尽力を注いだ人物です。関わった主な企業に、帝国ホテル、日本製紙、キリンビール、東洋紡績、東京海上保険会社等本当に有名な会社ばかり挙げられます。そんな渋沢栄一は「経営の神様」とまで言われていた人物です。

そんな渋沢栄一と岩崎弥太郎は生涯にわたって戦いを繰り広げたと言われています。

事の始まりは明治11年の8月、岩崎弥太郎が主宰した舟遊びに渋沢栄一が主賓として招かれた事に始まります。渋沢栄一が岩崎弥太郎の経営思想である三菱商事の社規を批判したそうです。

岩崎弥太郎は、起業家として有名で三菱商事も会社と言う組織体制を取っていました。しかし精神的な部分としては、組織体制を否定していたと言われています。対して渋沢栄一は、合本主義や経済道徳合一主義を取っていた事から、岩崎弥太郎の個人営利主義的な考えに同意する事が出来なかったそうです。

こう言ったやり取りが、舟遊び上で繰り広げられていたのですが、一応仲裁が入り万事休すと言った状態になったそうです。しかし岩崎弥太郎と渋沢栄一の間には深いヒビがこの時入ったと言います。

ここから戦いが始まるのですが、先ず仕掛けてきたのは岩崎弥太郎率いる三菱商会でした。渋沢栄一が率いる日本国郵便蒸気船会社を追い詰め、解散にまで追い込んだそうです。その後、三菱商会も大隈重信の失脚によって陰りが見え始めた所を、渋沢栄一が合本主義の下、共同運輸会社を創立して三菱を追い込んで行ったと言います。その為に三菱商会は窮地に立たされることになった事で一矢を報いたと言います。

最終的には、岩崎弥太郎が死去した後に、三菱と共同運輸が合同して日本郵船株式会社が設立されました。
でした。渋沢栄一が率いる日本国郵便蒸気船会社を追い詰め、解散にまで追い込んだそうです。その後、三菱商会も大隈重信の失脚によって陰りが見え始めた所を、渋沢栄一が合本主義の下、共同運輸会社を創立して三菱を追い込んで行ったと言います。その為に三菱商会は窮地に立たされることになった事で一矢を報いたと言います。

最終的には、岩崎弥太郎が死去した後に、三菱と共同運輸が合同して日本郵船株式会社が設立されました。
  


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2009年12月03日

岩崎弥太郎が世に出た理由

後藤象二郎の叔父である吉田東洋が手掛けていた私塾に、岩崎弥太郎も入塾していたといいます。ある一説によりますと、吉田東洋は甥である後藤象二郎に宿題を出したそうです。もちろん回答を書いて後藤象二郎は提出したのですが、その回答が余りにも見事だったそうで、不思議に思い後藤象二郎を問いただしたそうです。それで、岩崎弥太郎が代筆したのだと白状したといいます。この事をきっかけにして、吉田東洋は岩崎弥太郎に対して一目置いたのだと言う事です。

吉田東洋が手掛けていた小林塾では、身分など関係無く勉強したいと言う若者を受け入れていたそうで、ここで岩崎弥太郎が再び認められて世に出るきっかけになったのではないかと思います。

1858年に日米修好条約が調印され、安政の大獄が起こります。吉田東洋はこの時に土佐藩の政治に復帰する事になります。その時に土佐藩は藩財政危機の真っただ中にあり、その救済策として海外貿易を行って国内産業を盛んにしようと考え付きます。その調査をする為に調査団を作るのですが、その時に吉田東洋の推薦で岩崎弥太郎が入る事になりました。

その時に色々な仕事に従事する一方で、長崎にて海外事情もたくさん学んでいたと言われています。岩崎弥太郎は吉田東洋のお陰で、大いに出世した事が分かります。もちろん岩崎弥太郎も吉田東洋の事を尊敬していた事でしょう。

その後は、吉田東洋も暗殺され、藩費を浪費したとの責任問題も問われ、岩崎弥太郎自身も職を辞する事になりました。
  


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2009年12月02日

東洋の海上王と称された岩崎弥太郎

岩崎弥太郎は、父である岩崎弥次郎、母である岩崎美和の長男として高知県井ノ口村で生まれました。

岩崎弥太郎は地下浪人の息子として産まれましたが、大きくなるにつれて秀才角を出してきた様で、その頃の土佐藩主であった山内豊照に対して書を講じる等して褒美を貰う程だったといいます。この時弥太郎は14歳と言う幼さだったと言います。

安政元年に、弥太郎は江戸へ遊学する事になりますが、その時の志もとても大きく、地元の星神社の扉に大きく志を書いてから江戸の安積艮斉に遊学として入門したと言います。
しかしその翌年、父の岩崎弥次郎がお酒を飲んでいる席で喧嘩をした為、投獄されてしまいます。その事をきっかけにして弥太郎が地元に帰り免罪を激しく訴えた為に、弥太郎自身も投獄される事になりました。

その後、地元の井ノ口村を追放された後、吉田東洋と言う人と出会い、それをきっかけにして飛躍の道を歩むことになりました。

その後、後藤象二郎と言う人の下で、仕事のパートナーとして働く様になった弥太郎は、商才を発揮する事になり、長崎で設立された土佐商会でもその活躍は見事だった様です。

その後、土佐商会はつくも商会と名前を変え、それを基にして1873年三菱商会を設立する事になります。この三菱商会では、それ以前に坂本龍馬から得ていた示唆に基づいて海運業に着目する事になります。そこでも才覚を発揮するかのように、諸外国の汽船会社達と戦いをして、それを制していったと言います。その事から「東洋の海上王」とまで呼ばれる様になったといいます。
  


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2009年11月30日

岩崎弥太郎 坂本龍馬 2人の人物像

坂本龍馬は岩崎弥太郎が生まれた翌年に生まれています。岩崎弥太郎が極貧な家に生まれたのに対し、坂本龍馬の家は高知城下での郷士・御用商人と言う立場であった為、裕福な家に生まれました。

坂本龍馬が26歳の時に脱藩をするのですが、その後に師と仰ぐ事になる勝海舟と出会います。そして日本を改革しようと、洗濯しようと意を決する事になります。そして、勝海舟から紹介された西郷隆盛から指示を得る形で「亀山社中」を長崎に結成、薩摩藩や長州藩の為に色々奔走をしながら、薩長同盟をお膳立てし、幕末のヒーローと言われる様な活躍をしました。

坂本龍馬が後藤象二郎と出会って意気投合をした事から、岩崎弥太郎との接点も出て来るようになるのですが、坂本龍馬は脱藩に関する赦免状を中岡慎太郎の分と一緒に取得して亀山社中を海援隊としました。一方岩崎弥太郎は長崎商会で働いていて、後藤象二郎を援護し、土佐藩を経済危機から救う為に金策に走っていたと言います。その方法は蒸気船を購入したり、武器弾薬を購入したりしていたそうです。また龍馬率いる海援隊においても会計士として活動を支えていました。

龍馬は自由奔放に政治改革を進めていく、弥太郎は経済官僚として奔走していく。二人の活動はかなり違いましたが、日本全体または世界と常に意識をして活動をしていたのは、共通していたと言えます。その為に岩崎弥太郎は坂本龍馬に憧れを抱いていた様です。

似ている様で似ていない2人は、龍馬の死後、その意思を岩崎弥太郎が受け継いでいく事になります。
  


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2009年11月30日

NHK大河ドラマ 龍馬伝 岩崎弥太郎

2010年のNHK大河ドラマである「龍馬伝」は、福山雅治さんが演じる「坂本龍馬」が主人公になっていますが、この「坂本龍馬」の33年と言う短い生涯を、香川照之さん演じる「岩崎弥太郎」の視点から描いている作品になっています。

ドラマの内容ですが、岩崎弥太郎は三菱財閥の創始者であり、幕末時代屈指の経済人でもありました。同郷には、あの坂本龍馬がいましたが、いつも自分の前を歩いている坂本龍馬に、岩崎弥太郎が憧れていたと言う事は有名です。

しかしある日、土佐藩参政において師事していた吉田東洋が暗殺されました。この事をきっかけにして、岩崎弥太郎は坂本龍馬の事を憎む様になったと言います。

その後、弥太郎と龍馬の二人は長崎の地で再会を果たす事になります。二人は衝突を何回も繰り返しながら一緒に海援隊を盛り上げていったそうです。しかし坂本龍馬は暗殺される事になり、坂本龍馬の志でもあった「世界の海援隊を作る」は岩崎弥太郎に引き継がれ、その後の発展を遂げていく。と言う物語になっています。

出演するキャストも豪華で、龍馬の師である「勝海舟」役を武田鉄也さん、龍馬の妻「お龍」役を真木よう子さん、龍馬の姉「坂本乙女」役を寺島しのぶさん等と言った、豪華な顔触れになっています。

幕末の風雲児と呼ばれた坂本龍馬の生涯を、三菱グループの創始者である岩崎弥太郎の視点で描くと言う、面白い視点の大河ドラマは、今までにない様な感じの大河ドラマになっています。
  


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2009年11月30日

三菱グループの創始者、岩崎弥太郎

土佐商会と言う会社があったのですが、明治維新が終わった後、名前を土佐商会から「つくも商会」に改名しました。明治4年に廃藩置県が行われましたが、この時に「つくも商会」の施設を譲り受けたのが岩崎弥太郎でした。

また施設を譲り受けたのをきっかけにして「三菱商会」と言う会社を創設する事になり、現在の三菱グループの原点になります。今ではお馴染みである三菱のマークは、この時定められたそうです。何故あのような三菱マークを商標にしたかと言うと、三蓋菱と言う岩崎家の紋と、三葉柏という岩崎弥太郎を認めてくれた土佐藩主山内家の紋を組み合わせたマークだと言われています。

岩崎弥太郎は元々「海援隊員」と言う事もあって、海運業にかなり力を入れていたと見られ、その功績から「東洋の海上王」とまで言われる様になったと言います。しかしその功績も空しく、52歳と言う若さで無くなる事になりました。

今の三菱グループがあるのは、岩崎弥太郎がいたからなのだと言う事が分かります。

そんな岩崎弥太郎ですが、高知県安芸駅から自転車に乗って20分程行った場所に、岩崎弥太郎の生家があります。当時はどういう所だったかは定かじゃありませんが、現在では一面田んぼと言うのどかな場所になっています。その生家は今でも残っていて、何ともいえず温かい雰囲気が出ている家になっています。車1台がなんとか通れるような道沿いに立てられていますが、その現代とはかけ離れている場所だからこそ、当時の雰囲気があふれているのかもしれません。そんな場所で育った岩崎弥太郎が三菱グループの創始者になるまでは、色々苦難も有った様です。

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2009年11月30日

岩崎弥太郎という人物の生い立ち

岩崎弥太郎(1834~1885年)は現在の大企業、三菱グループの創始者で有名な人物です。三菱グループの創始者である事は知っていても、高知県安芸市出身で坂本龍馬と関係が有ったと言う事は意外にも知っている人はあまりいないのではないでしょうか。

その岩崎弥太郎の生誕の地である高知県安芸市には、生家が今でも大切に保存されていて一般公開もされているそうです。

その岩崎弥太郎ですが、1834年(天保5年)にその時は地下浪人であった岩崎弥次郎の長男として産まれました。弥太郎はその奇才ぶりを最大限に発揮していた様で、10数歳で漢詩を他人に献じたり、書を講じたりしていました。その秀才ぶりが第13代土佐藩主である山内豊照に認められたそうです。この時弥太郎はわずか14歳と言う幼さでした。

しかし、そんな秀才ぶりも何処へやら、幼い頃には畑などを荒らしたりして周囲を困らせるかなりの悪ガキであった様です。

そんな弥太郎がどう思いを巡らせていたのか、21歳の時に江戸に単身で遊学に行く事になりました。江戸で一生懸命勉学に励んでいた様ですが、1年経ったある日、自分の父親が投獄されている事、その理由が酒席での喧嘩が原因だったと言う事を知り、高知に帰り父親の免罪を訴えました。しかし逆にその事が原因で弥太郎自身も投獄されてしまい、村を追放されることになったのです。と言う様な波乱万丈な人生の幕開けが、岩崎弥太郎の生い立ちです。その後にも色々な業績を残す事になります。
  


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